小林賢太郎演劇作品『うるう』 2016/01/15 サンケイホールブリーゼ

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舞台美術はよかった。
森の中の真っ白な畑な。とうていキャベツやインゲンやなんやかやには見えないくねくねして奇妙な造形の何かが生えてたけど、それが主人公ヨイチの特異性を表してるね。
脚本の構成としては、イマイチかしらん。
舞台作品において説明台詞を多用するのは美しいとは言えないし、ましてテロップで処理しちゃうならもう小説にしたら? って話になっちゃうからなあ。尺に対して詰め込みたいことが多すぎちゃったんだろうから、もう少しネタを切り詰めればよかったんじゃないかなあ。ヨイチの独白からお笑いシーンを削って、もう少しシリアスにしてもよかったかもね。マジルくんだけで充分微笑ましさはあったし。でも小林さんはあまり救いのない感じにはしたくないんだろうね。

ストーリー自体は、大好き。
(以下、ネタバレ)

森の奥でひとりでくらしている、白髪の男ヨイチ。話し相手は老木のグランダールボ。タビュレーターマシンで色々なものを数えたり、ラジオを聴いたり、書き物をしたり、野菜を作ったり、悠々自適に暮らしている。
そんなある日、うさぎを捕まえるために仕掛けた罠に、意外なものが捕まる。人間の子供である。名前はマジル。街の小学校に通う8歳の少年。
好奇心旺盛なマジル少年は、森の中で出会った奇妙なおじさんに興味津々。「おじさんはどうして森の中で暮らしてるの?」「どうして白髪なの?」と質問攻め。
「もうここへはくるな!」と追い返すヨイチだったが、マジルは懲りずに何度もやってくる。二人はまるで正反対だった。
不器用でいつも「ひとつたりない、ひとつあまる」人生だったヨイチ。優秀だから選ばれて、みんなとは違うことをやらせてもらえるマジル。
誕生日はおなじ、2月29日。

いつの間にか二人はすっかり友達になっていた。しかし、ヨイチはマジルとは友達にはなれなかった。
なぜか。
ヨイチは長い寿命を持っていた。マジルは今は子供だけれど、いつかヨイチよりも先に逝ってしまう。ヨイチはそれが辛かったのだ。

ヨイチの父親は不老不死の薬を研究していた。それを自分や妻で人体実験していた結果、授かった子供に効果があらわれてしまったのだ。常人の四分の一のスピードでしか歳をとらないヨイチは、住むところを転々とすることを余儀なくされた。歳をとらないことで不気味がられてしまうからだ。
いつしか彼は卑屈になってしまい、大切な人たちは皆自分をおいて逝ってしまうことに耐えられなくなり、隠者となることを決めた。どうせ余ってしまうのなら、はじめから混ざろうと考えてはいけない。

マジルを帰し、再びひとりぼっちとなったヨイチは、「うるう、うるう」と森の奥でむせび泣くのだった。
そして40年の歳月が経ち——。

ざっくりと書くとこんな感じ。記憶曖昧なんで間違ってる部分もあるかもしれませんが。
話の筋云々はともかく、ヨイチのうんざりするほど長い寿命をクリエイティビティと読み替えると、もの作ってる人間の孤独が透かし見える気がするんだよなあ。

アーティストってもの作ってるだけで羨望の目でみられるけど、結構な数で「そうしないと生きていけない」ってタイプの人がいるんだよ。
変わり者で世間に適応できないから、自分のできることでなんとか存在意義を見出すしかなくて、そんで、たまたまできるのがもの作ることだけで、それをしてるときだけは他人に認められる、っていう切実さがあるもんだ。
たぶん、小林さんはそんな人。作品に析出するリア充に対するコンプレックスを鑑みるに。

こんなもんいらんから、普通の、ごくふつうの感性を持ちたかった、っていう気持ちはどこかにあるって。私は、あるぞ。自分がアーティストと名乗っていいのかわからんけどよ。
だからヨイチは、淡い恋心を抱いていたコヨミさんがごくふつうの男と結婚した時に、ショックを受けたんだよな。「特別な1」は素敵かもしれないが、なんだかんだで普通がいちばんなんだ、と。
ヨイチを励ましたコヨミさんは嘘をついたわけじゃないんだ。でもそれは、彼女が彼を選ぶ理由とはなり得なかった。それはそうだよね、素敵だ、と思うのと、交際したいな、と思うのは別だもの。何もヨイチに限ったことじゃないさ。

ものは好き好きだから、恥じる必要はないんだ。自分の趣味が多数派ではなかったってだけだ。
でもそれが故に、わからないことをわかると偽ったり、興味のないことに義務感で興味をもとうとしたりしなきゃいけない局面が多々あって、そんな自分がめんどくさいなあと思うのだ。こっちは話を合わせられるのに、相手はこっちに合わせられないんだものな。仕方ないこととはわかるけど。
常人の四倍の寿命をもつヨイチが転校をしながら四回ずつ同じ学年を繰り返し、同じ勉強を、知らないふりをして何度もやらなきゃいけなかったみたいに。

こういう自分をなんとか取り繕って生きてるけど、本当の自分をさらけだして共感してくれる人なんて、どこにもいないんじゃないか?
ほんの一握りいてくれる理解者も、うわべだけを撫でて騙されてるにきまってる、そんな風に思えたりもする。
とはいえ、孤独感なんて誰しも持っていて、自分だけが特別ってわけじゃないのだ。
私が「普通の人」と思ってる群衆のひとりひとりにも、誰にも言えない悩みはあるだろうさ。私の目には映らないだけで。

マジルだってそうだ。彼はヨイチとはちがって、「選ばれた1」だ。でも、みんなと違うことをしてるってことは、そのときのみんなの気持ちとはシンクロできないわけで、やっぱり、寂しいものなんだよな。
ヨイチが気づかなかっただけで、マジルはヨイチの姿に自分を重ね合わせてたのかもね。

どっかに自分を一部分でも理解してくれる人がいて、ほんのひととき解り合えれば、それでこの人生は十分成功している。そして、ずいぶん時間が経った後に、ふと思い出してくれて、「そういうことだったのか」と全容を理解してくれれば、大成功なのだ。

ラストシーンで(肉体年齢が)48歳になったヨイチと、48歳に成長したマジルが再会するんだけども、これはその瞬間こそに意味があるのであって、この先マジルだけが老いていくことはどうでもいいんだよ。
「時間だけ前に進んでいき、自分は取り残されていく」という概念にとらわれて生きてきたヨイチが、「いま、この瞬間に在ること」すなわち、「時間を積み重ねて未来に向かうこと」にシフトした瞬間なのかなあ、って。
いっしょに暮らしてるのがほぼ成長の止まった老木のグランダールボから(40年の時の流れの中で倒れてしまったのが示唆されている)(=ヨイチの考え方の転換、と私は捉えた)、これからどんどん大きくなる若木のアルブーストに変わったのもそういう意味なのかと思ったのだよ。
だからひょっとすると、これからのヨイチは、森を住処としつつも、ときどき街に降りていくのかもしれないね。
今の自分の心境を重ねた、私独自の解釈なので異論は認めます。

てなわけで、ドクダミは用法・容量を守ってお使いください。ピンポン♪
クレソン先生は小宮山と、「ドクダミと万能ネギ、どっちが万能か?」という対決をするべき。