Waltz of twilight

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 車の助手席から青いエナメルの靴が駆け出した。長い髪と白いスカートをなびかせて、妖精が秋風と踊ってる。
開けっ放しのドアを閉めてから、僕は黄色いカーディガンの背中を追う。ゆっくりと。公園に続く並木道。遊歩道にできた小さな水溜りが澄んだ空を映し出していた。辺りにはまだ雨の匂いが残っている。肌にまとわりつく空気はじっとりと重い。

 僕たちのほかに人影はなかった。黄色く色づいた銀杏の葉が揺れる、乾いた音が僕の傍を通り過ぎていく。彼女が上機嫌で口ずさむメロディーが遠く響いた。
枯葉を踏みしめる感触が、心の奥底に仕舞い込んだ記憶を呼び覚ましていく。みぞおちの辺りが締め付けられてるのは、空気が冷たいからだけじゃない。

 半分だけ空っぽになった部屋のテーブルに、贈ったばかりの指輪がポツンと取り残されてた。疲れた身体を引きずって、似たような場所をとぼとぼ歩いてた。よれたスーツのまま。僕はあの子の背負ってた悲しみに耐えられなかった。涙を見せたら、わざとだ、って怒ってたっけ。最後まで何にもわからなかったけど、それでも好きだった。不器用に。

 ふと我に帰ると、彼女の姿が見えない。彼女の名前が高い空に吸い込まれる。

「ここだよ」

 振り向くと彼女が木に持たれかかって手を振ってた。小走りでこっちにくる。僕はポケットに仕舞ってた右手を出して、彼女の左手を取った。

「どうしたの?」

 彼女、驚いた顔して僕を見てた。いつもはこんなことしないから。

 何もいわないで首を振る。風に消えたような気がしたんだ、そんなこといったら笑われるだろうから。

 でも彼女には僕の心の中なんてすっかりお見通しなんだろう。どこにもいかないよ、といいたげに僕の手をぎゅっと握り締めた。頼りない僕の腕に身体を預けてくれる。まるで恋人みたいな構図。

 木とロープで出来たアスレチックが見えてきた。赤色の馬も、水色の象も、みんな湿った色をしている。僕らの足音を聞いた雀が飛び立った。烏が上空で濁った声を上げてる。地上には僕と彼女だけ。

 置き去りにされた三輪車が立ち尽くしてる。砂場にはプラスチックの赤い熊手が突き刺さったままだ。昼間の雨はきつく、急だった。

 彼女が不意に僕の手を離して、ブランコに向かって走り出す。立って漕ぎだした。不安定なヒールで器用にバランスを取りながら。錆び付いた鎖が軋んで啼いた。

 住宅街の谷間に蕩けていく太陽、もう少しだけそこに踏みとどまっていてほしい。夜になれば僕らは離れ離れになってしまうから。

 僕は三輪車に腰掛けて、風に揺れるブランコを眺めてた。彼女の横に並んで乗れるくらい、無邪気な気持ちになれたらいいのに。

 赤味のかかった空がもう藍色に染まっていく。

 もう帰らなくちゃ。

 遊び足りない彼女を促して、もと来た道を戻る。気持ちだけ早足で。もたもたしてたら、いつまでも離れられなくなるんだ。

「……一緒にいてあげようか。今日だけ」

 振り向いた彼女の顔は冗談みたいに真剣だった。上品な野良猫みたいな瞳が揺れてる。

「からかうなよ」

 彼女のいったこと、本当だってわかってた。

 こんな自分勝手が少しずつ彼女を傷つけてるのも知ってるけど、引きずったままの痛みが僕を臆病にさせてる。“幸せ”を考えるには寂しさに慣れ過ぎていた。

 彼女は奇術師の手つきで僕の左手の薬指からくすんだ色の指輪を抜いた。悪戯っぽく笑って見せると、それを薄闇の中に投げ捨てた。

 そうやって、人が怒りそうなことを面白がってやる。だけど何をされたって不思議と腹は立たなかった。彼女になら僕は殺されたって笑ってるだろう。

「怒らないの?」

 拍子抜けした声が僕を追いかけてくる。

 僕の持ってる思い出を彼女はつまらないなんていわないけど、時々こうやって僕をからかう。そんなものもっていてどうするの? って。そういわれるとそんな気がして、全部放り出したくなる。僕は意気地なしだから、いつも踏みとどまってしまうけれど。

 だけど。

「いらないよ。あんなの」

 今、この瞬間には。

 彼女と一緒にいれば過去なんてなくても平気だ。

 でも離れてしまえば寂しくて、何もない夜は過ぎ去った時代に溺れてる。触れるのが苦しくても、胸が締め付けられても。どこからが本心なのか僕にはもうわからない。

 寂しいんだって泣いたら、彼女はきっと僕の涙を拭いてくれる。

 だけど、そんな彼女の優しさは、彼女がたったひとつ大事そうに抱えてる孤独が作りだしてるって僕は知ってる。少しだけ分けて欲しいけど、僕の両手は捨てられないガラクタでいっぱいだ。あんな風に投げ捨ててしまえればどんなにか楽だろう。

 並木道の終わりで僕らは手だけを振って、さよならはいわない。そんなこといったら、二度と会えなくなる気がして。

 彼女の姿が曲がり角に消えるまで見てたら、辺りはもうすっかり夜の気配に飲まれていた。気の早い星が輝きだしている。

 冷えた手をポケットに突っ込むと、固いものが指先にぶつかった。取り出してみて思わず苦笑いが零れる。彼女が投げ捨てたはずの指輪だ。僕のこと、よくわかってる。嫌になるくらい。

 彼女の好きな歌がステレオから流れてる。こんな季節には悲しすぎる三拍子が、乾いたリズムで僕の傷口を撫でていた。

 僕は煙草に火を点ける。涙目を煙が沁みたせいにしたくて。お願いだから、帰り道で溢れないでいてほしい。家に帰ってひとりで泣くから。得体の知れない寂しさに打ちのめされて。

 通りを舞う落ち葉が彼女の軽やかな足取りを思い起こさせて、さっきまで見てたことがもう思い出になっているのを知った。

 いつの日か身軽になれたら、風を連れて踊ってみたい。

 彼女みたいに。彼女と一緒に。

 

 

inspired by  公園〜黄昏のワルツ/the pillows