猫と僕と教室で

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 ベッドから起きた僕は、ある決意と共に薄汚れた青いカーテンを開く。朝日が目に突き刺さった瞬間、昔のことを思い出した。

 小学校五年の七月、不登校を始めた。

 理由なんてない。強いていうなら、人間をやっているのにウンザリしたのだ。家にいても楽しいわけではない。無為に日々を過ごした。

 夏休みが終わっても不登校が続くとなると、周囲は焦り出した。両親は折に触れて説教をし、しょっちゅう家にくる女の担任は「殻に篭ってちゃダメ」と繰り返す。

 その内担任が放課後でもいいから顔を出せといいだしたので、夕方になると母親は荷物みたいに僕を車に詰め込んだ。担任は教室の席で黙々と課題のプリントを埋めていく僕に、クラスで起こった事件を大袈裟な調子で話し掛けてくる。僕は一言も喋らなかった。バカだと思ったからだ。十分もすると彼女は根負けして教室から出ていく。たぶん怒っていただろう。どうでもよかった。

 その日も課題を一通り消化した僕は戸締りをするために窓際に立った。校庭には居残って遊ぶ児童の影が長く伸びる。教室の一番端の窓際には一本のポプラの木がざわめいていた。窓を閉めようとすると、何かが飛び込んできて、黄ばんだカーテンを揺らした。鯖虎の猫だった。

 猫は僕をチラリと見てから黒板の下まで歩いていき、その下で何度かジャンプした。チョークが欲しいのだと気付いた僕は、ちびた赤色を猫の足元に転がす。彼は器用に前足で拾い上げた。そして、

 ——わすれもの?

 と床に書いたのだ。乾涸びたミミズを釘で打ちつけたような汚い字だった。僕は無感動にそれを見つめた。感情が腐ってたから、猫が字を書くことも不思議に思わなかったのだ。そして猫からチョークをとりあげ、鏡文字の『す』に大きな×を書き、正しく書き直す。

 僕は自分が不登校で、放課後登校とやらをやらされているのを手短に説明した。猫がきちんと理解したかどうかは知らないが、

 ——べんきよ たのしよ

 と返事があった。『べんきよ』と『たのし』の後ろに、それぞれ『う』と『い』を付け足す。

「勉強は嫌いじゃないよ。人と付き合うのが面倒」

 猫はおし黙った。猫に人間関係なんていっても解らないに決まってる。しばらくして、猫は再び文字を書いた。

 ——あしたもくる?

「たぶんね」

 ——まてるよ

 僕が『ま』と『て』の間に小さな『っ』を書き足すと、猫は満足げに窓から出ていった。

 だけど次の日、僕は約束を破った。その次の日も。

 ようやく登校したのは冬になる直前だった。猫は死んでいた。校庭に小さな墓ができていた。あいつは校内でも有名で、一年生の授業を外から見ていたらしい。

 その日から僕は不登校をやめた。

 死んだ猫のぶんまで勉強しようと決意して。以来、中高とトップの成績を保ち、誰もが羨むような有名大学を出た。

 そして今、就活に失敗した僕の部屋のカーテンは十年ぶりに開き、部屋の主を吐き出す。無機質なコンクリートの地面に向けて。